小説「影裏」をゲイ視点で分析「ノンケに片想いするゲイの独り相撲なのか」
「サブスク配信でゲイ映画『影裏』理解することを放棄して作ったとしか思えない無惨な作品」という記事が予想外に多くの人に読まれている。
分かりづらいこの映画を理解するためには、さらに分かりづらい原作小説を理解することが必須。ということで、ゲイ視点で分析すると、共感ポイントも少なくない原作小説の世界を解説する。
目次
小説「影裏」をゲイ視点で読み解く
処女作にして第157回芥川賞(平成29年/2017年上半期)受賞とした、沼田真佑・著「影裏(えいり)」。
選考委員の高樹のぶ子氏が「性的なもの(ボーイズラブ)が背景にあるために」という発言をしたことで一躍注目された。
「影裏」は、1時間もあれば読めてしまうような中編なのだが、あえて説明をしていなかったり、主人公視点で物事や人物を見ていくゆえに、読者も主人公と同じ混乱を覚えるような仕掛けが施されている。
それゆえ、さらっと読むと「よく分からない」という印象が残る作品でもある。
ところが、ゲイ視点で主人公に自分を投影して読み直すと、理解できる部分が多く、まったく異なった読後の印象になる。
ここでは下記の順番で、ゲイ視点から「影裏」を分析していく。
① これは、ノンケに惚れたゲイの一人相撲なのか?
② 主人公の主観に滲むゲイ要素
③ 読者を混乱させる”元恋人”の存在
④ ゲイ読者を切なくさせる主人公のゲイ感覚
⑤ 結末に向け、身につまさるゲイのお花畑な考え方
まずは「あらすじ」
主人公・今野は会社の出向で東京近郊から岩手に移り住んだ。岩手という土地に、あるいはそこに住む人に馴染めない今野が唯一心を許せるのは同じ会社に務める日浅だった。
共に酒好きで、釣りが好きな2人はしょっちゅう連んでは遊ぶようになる。しかし、日浅はいきなり会社を退職し、音信不通となる。
心にぽっかりと穴が開いたような喪失感を覚える今野。
そして数ヶ月後、突然に姿を現した日浅は新たな仕事に就いていた。以前のような交流が再開すると期待する今野だったが、日朝との関係は微妙に変化が生じていた。
そしてあの3月11日を越えて、今野は日浅のもう一つの顔に触れることになるのだった。
① ノンケに惚れたゲイの一人相撲なのか?
読み始めると、すぐに気づくのが自然の描写の巧みさ。川釣りに出かけた時に主人公が見ている自然が目の前に浮かんでくるように、緻密に、そして美しい言葉の選び方で描かれていく。
そんな自然描写の緻密さとは逆に、人間に関しての描写はえらくぼんやりしているという印象を受ける。
主人公の今野、そして今野の同僚である日浅。
主要な登場人物2人の年齢も、どんな容姿なのか、全く触れられていない。そして主人公・今野の心の動きも、やけに客観的で冷静なトーンで描かれていて、感情の起伏が大きくないように感じられる。
冒頭に紹介した高樹のぶ子氏のコメントにある「性的なもの(ボーイズラブ)が背景にあるために」という部分に関しても、作中ではっきりと記されているわけではない。
『影裏』が最初に受賞した文学界新人賞の受賞コメントで沼田氏は「2人の男の関係をどう読むかは読者に委ねた」と語っている。
そういうことなので、ゲイ視点で「2人の男の関係を」読んでみると、
「ノンケに惚れたゲイの一人相撲」
と読み解くことができて、俄然、この小説が興味深い存在になっていく。
② 主人公の主観に滲むゲイ要素
まず、冒頭の川釣りに向かう場面。自然の緻密な描写に比べて人物がぼんやりとしか描かれていない、と書いたが、最初に日浅が登場する際の描写には「不穏なもの」が感じられる。
暑い日ゆえに、そして前日酒を痛飲したから余計になのか、しこたまかいている日浅の汗に関する描写は妙に艶めかしさを感じさせる。
そして、「何か大きなものの崩壊に脆く感動しやすくできていた」という日浅が、土砂降りで倒れた巨木・水楢(ミズナラ)に対して執着し、撫でたり耳を押し当てたりしながらうっとりしている様を、今野は携帯のカメラで撮影する。
この部分で、ゲイならばピンと来るものがあるはず。
ノンケなら同僚が汗をかいていても、そこに艶かしい匂いを覚えるはずもない。しかし、ゲイならば好みの男に対する観察眼には、当然のように性的な匂いが伴う。そしてその男が少年のように目を輝かせて何らかに没頭していたら、その様を可愛いと思い写真に撮るのが当たり前だ、と。
さらに「不穏な描写」は続く。
日浅が突然退職して音信不通となったのち、今野は頻繁に日浅を見かけた社内のあちこちを歩き回る。「むやみに職場をふらつくなんて職務怠慢だ」と冗談めかして上司に注意されるほどの頻度で。
それでも今野の心境として「日浅的人物」つまり、釣りと酒が好きで山道の運転が得意で「つき合いやすい同世代の独身の男」要するに友人を探すためだと語らせる。
しかし、これは自分に対する言い訳だと読める。なぜなら、社内で友人を求めることは悪くないだろうという開き直りのために「未来の夫や妻を見つける人もあるくらいだ」という比較を持ってきてしまう。
これはノンケ男の発想だとはとても思えず、かなり直接的にゲイであることを表現しているとすら感じる。
③ 読者を混乱させる”元恋人”の存在
再会した日浅に誘われ夜のあゆ釣りに出かける日に、「気詰まりな対話を重ねた末に別れた」、今野の昔の恋人からメールが届いたというエピソードが挿入される。
その恋人の名前は、副島和哉。
唐突に記されるこのエピソードにより、今野はやっぱりゲイだったのか、と一旦は納得するのだが、これに続く記述で読者は混乱させられることになる。
昔の恋人・副島和哉のメールに続いて、今野の妹から「今つきあっている人と近々入籍します」というメールが届く。
これを読んだ今野は、もし今野と和哉がつきあっていた当時、和哉が自分の家族に対してこんなメール(今付き合っている人・つまり今野と近々入籍します)を送っていたら「二人(今野と和哉)は結婚したんじゃないだろうか」と考える。
今の日本では同性婚が認められているわけでもないのに、こういう風に考えるなんてえらく進歩的なゲイだなとか、それ以前に家族の間で揉め事が起きるとか考えないんだ、とちょっと引っかかる違和感を覚えた。
そんな引っかかる部分は、その日の夜、副島和哉と電話で話す場面でさらに増幅する。
和哉に電話をかけると「記憶の中の面影と合わない、穏やかな女性の声」がして、今野は、別れる直前の夏に和哉が「性別適合手術を受けるつもりだ」と公言していたことを思い出す。
前記の「二人は結婚したんじゃないだろうか」と今野が考えた事と、副島和哉の「性別適合手術を施術するつもりだ」という言葉が重なって、今野はトランスジェンダーと付き合っていたノンケ男性なのか? と一瞬考えてしまった。
しかしそうであるならば、副島和哉という名前ではなく女性の名前で呼ぶのが普通だろう。
その観点からもう一度読み返してみると、
・「気詰まりな対話を重ねた末に別れた」
・別れる直前の夏に和哉が「性別適合手術を施術するつもりだ」と公言していた
という2点が繋がる。
つまり、『ゲイである今野は男性として副島和哉が好きで付き合っていた。しかし、副島和哉は自分がトランスジェンダーであり、自分の性自認である女性として生きる事を選んだ』それゆえ、2人は別れる事になったのだ、と理解できる。
④ ゲイ読者を切なくさせる主人公のゲイ感覚
日浅に夜の鮎釣りに誘われた今野は、まるでデートに誘われたかのように喜び、いそいそと準備をする。
絵に描いたような初心者が好むアウトドア・ウェアに身を包み、簡易テーブルやディレクターズ・チェア、チタン皿やシェラカップなどのアウトドア・グッズを用意し、タストヴァン(岩手県のスーパーチェーン”マルイチ”が展開する酒と輸入食品などを扱う店)によってキルシュ(発酵させたチェリーを使った蒸留酒)とピクルスを購入。
この部分の描写で、「お洒落な暮らしに憧れて形から入ってしまうゲイの典型だ」とピンとくるゲイ読者は少なくないはずだ。地方住まいのノンケ男性ならばます考えつかないような、やりすぎ感が満載。
地方のノンケ男性の無骨な感覚と、お洒落に憧れるゲイ的センスの食い合わせの悪さを、身を持って痛いほど実感しているゲイにとっては、今野が勝手に盛り上がる心情も、またそれにより引き起こしてしまう気まずい雰囲気も容易く想像できてしまうもの。
作中で日浅は、(何かにイラついたかのように)今野のゲイ的センスをけちょんけちょんに攻撃する。さらに、当然2人きりの夜だと思いディレクターズ・チェアは2脚しか用意していなかった今野のほのかな期待を裏切るかのように、日浅が声をかけていた井上氏というノンケ親父が途中から加わってくる。
ゲイ視点からすると「ノンケ男に惚れて、勝手にデート感覚で舞い上がったものの、目論見外れて散々な目に遭い、勝手に傷つきいじける」今野の切なさが手に取るように理解できるはずだ。
【警告】
ここから先は、結末に関してのネタバレ注意です。
あらかじめご了承ください。
⑤ 結末に向け、身につまさるゲイのお花畑な考え方
ゲイ視点で「影裏」を読み解いていくと、終盤に向かい、切なさは加速していくばかり。
まずは、日浅と仲の良かった西山という年上の女性パート従業員との会話。
震災のあと音信不通になった日浅のことを心配して彼が勤めている互助会(冠婚葬祭のための積立を販売する会社)に安否確認をした時に、会社の上司からどんな関係なのかを聞かれた西山は「彼女です」と答えたと言う。
今野はその西山の言葉を「(日浅が)独身の三十男だから、下手に母親だと偽るよりはまだしも近いと判断したのか」と理解する。
しかし、それは実は内心動揺している自分を落ち着かせるための無理矢理なこじつけにすぎない。
西山は日浅に頼まれ、自分の葬儀と夫の葬儀プランに続けて加入。さらに「これが最後だ」と頼まれ娘の結婚プランに加入。その後、お礼がしたいと日浅に呼び出されラーメンをご馳走になり、さらにもう一口加入をと頼まれて断る。ところがその翌週に、借金の無心をされた西山は、求められた額に5万円上乗せして貸したという。
ただ単に仲が良かっただけの女性パートに、こんなに頼るものだろうか? また、西山にしてもただ仲良かっただけの年下の元社員に、ここまでのことをしてあげるだろうか?
冷静に考えれば、2人は男女の仲だった、と判断するはずだが、今野は西山の行為を「おそらくは一種の親心から」なされたことだと自分を納得させるように考える。
しかし、これはあまりにも無理筋というもの。日浅と西山の間には、男女の関係があったと考えるべきだし、日浅の上司から関係性を問われた西山が即座に「彼女です」と答えたのは、文字どおり深い関係のある「彼女(恋人)」という意味だと捉えるのが当然だ。
しかし、今野にとっては、一時期「自分だけが日浅にとってスペシャルな存在」であったという思い込みによって支えられていたのだから、同じ時期に、日浅が年上の女性と男女の関係であったなどとは、到底受け入れられられるものではない。
西山の話を聞けば、突然会社を辞めて転職した日浅が、音信不通の期間を経ていきなり今野の前に現れた意図が理解できる。実際、日浅に頼まれて今野も一口入っているのだから。そのお礼に、という口実で鮎釣りに誘い出したことも、西山の話と付き合わせれば、さらに借金を頼むための意図があったと理解できる。
その場に井上氏を呼んだ理由は、「自分が如何に顧客に信頼されているか」を示すためではなかったのか。
あの晩、今野に楽しい時間を過ごさせてから借金の無心をするつもりだった。そんな思惑があったのに、今野がすっかりデートな気分でいたことで計算が狂い腹立たしくなり、攻撃的になったのではないか。だから、金の無心をする標的を西山に変えたのではないか。
客観的にゲイ視点で読み進めると、日浅の思惑が次々と見えてくるのだが、ノンケ男に惚れきってしまい頭の中がお花畑になってしまっているゲイ・今野に冷静さを持てというのは無理な話。だから、今野が、行方不明の日浅が津波に巻き込まれていくイメージを、とてもロマンティックかつ詩的な情景として思い浮かべてしまっても仕方がないこと。
自分が相手を想うほどは相手が想ってくれない時には、好きという感情だけで頭の中が沸騰していて冷静な判断力など持てるはずもない。ましてや相手がノンケ男であるならば、自分の想いが叶わないが故に、頭の中はさらに激しく沸騰するだろう。
今野はだめ押しのように、日浅の父から彼の実像を聞かされる。
小学生の時の日浅のエピソード「一人としか馴れ合わず、その相手をどんどん変えていった」ことを聞けば、大人になった彼が会社での人間関係をどう構築したのか想像がつくはずだ。
日浅の行為は、人の気持ちを操る実験を繰り返していたように思える。その特性は、時を経るにつれ研ぎ澄まされ変容していった。東京の大学に通い卒業したと家族に嘘をついていた日浅は、何をしていたのか不明な東京での生活の中、自分に対して性的な魅力を感じる人を見極める能力を研ぎ澄ませていったはずだ。
それゆに会社では、西山と今野が自分に抱く性的な好意を感じ取り、接近して親密になったのではないだろうか。
血の繋がった父親は、日浅のその性質を冷静に見抜いていたから、大学の卒業証書が偽造だと知らされたときに、それを理由に、というよりもそれを利用して親子の縁を切ることにした。
さすがに頭の中が恋する想いで沸騰していてロマンティックなお花畑状態の今野も、ここまで聞かされれば目が覚めるかと思いきや、震災後間もない頃に営業休止中の銀行ATMをバールでこじ開けようとして逮捕された男を思い浮かべ、「日浅がその男の同胞であるのを頼もしく感じた」と思ってしまう始末。
ゲイとしては、「(今野に)つける薬がないとはまさにこのこと」と呆れる気持ちが半分。しかし、ぷっつり音信不通になった日浅への想いが心の中で燻り続けていて「お花畑から抜け出せなくても仕方ない」と共感はしないまでも理解できる部分が半分。
それと同時に、ここまでゲイを惚れさせる日浅という男はどんなに魅力的だったのか、描写が詳しくない分想像だけが逞しくなっていく。
「影裏」はとても短い作品だが、わざと明確にせずにぼやかした書き方をしているために引っかかる箇所が多く、それを確認し読み解くために何度も読み返してしまった。
まんまと著者の手のひらの上で踊らされてしまう、ある種の快感を覚える作品でもある。
影裏 えいり
沼田真佑・著
文藝春秋・刊
定価:本体1,100円
第157回(2017年)芥川賞
影裏(文春文庫)
定価:605円
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(冨田格)
※価格はすべて税込
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