ルネッサンス芸術が描く男たちがマッチョでセクシーすぎる理由を考えてみた
見事に鍛え上げた肉体を、わずかな布で隠すか、もしくは全裸。ルネッサンス芸術の絵画や彫像に描かれる男たちは、どうしてあんなに逞しくてセクシーなのだろうか? 芸術作品を性的な観点で紐解いていく興味深い記事を紹介しよう。
どこを向いてもイケメンだらけ
ルネッサンスは、今日私たちの心に残る多くのアイデアを生み出したことでよく知られているが、同時に芸術の宝庫でもあった。
ルネッサンス期の絵画には、セクシーでうっとりするような作品がたくさんある。当時の芸術作品は、文字通り「どこを向いてもイケメンだらけ」なのだ。
逞しいイケメンばかりが描かれた理由は、なぜなのだろう?
考えられるのは、”ホモソーシャリティ”といわれる、性的なことに直結しない同性間の社会的結合があったこと。その当時は芸術を鑑賞することは、エリート社会・哲学界における男性の知的生活の主要テーマだった。
美術史家のパトリシア・シモンズが論じたように、男性にとって官能と性愛の境界は曖昧なものだった。キリスト教では、内面の美しさが外面に反映されると考えられているため、男が逞しくセクシーであればあるほど神聖な存在であると信じられていた。
芸術家たちはこの考え方にのり、ホモソーシャルな世界に “リアルなゲイ感覚”を取り入れて創作活動に励んだ。そうすることで逞しくセクシーな男性の姿は、美の頂点と考えられるようになっていった。
“ふしだらな聖人”はM気たっぷり?
それは、何世紀にもわたってゲイの象徴と考えられている聖セバスチャンを描いた絵画を見れば一目瞭然だ。
木や柱に縛られ、矢に刺されたこの聖なるイケメン(聖セバスチャン)は、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、ピーター・ポール・ルーベンス、アントニオ・デル・ポライウロといった著名な芸術家たちのお気に入りの題材だった。
セバスチャンを描いた多くの作品のなかで傑作と称されているのは、グイド・レーニによる『聖セバスチャンの殉教』だ。
“ふしだらな聖人”と呼ぶ人もいるほど、今にもほどけそうな彼の腰布の際どさはもはや命がけ。引き締まった体幹に突き刺さった矢など彼がおかれている状況が陰惨であることは間違いないが、セバスチャンの表情はその痛みに恍惚となっているかのようで、不思議なほどに官能的でもある。
ミケランジェロは”裸族の王”だった
わずかな腰布で局部を覆っている聖セバスチャンよりも、さらにヌードな存在といえばミケランジェロによる彫像が思い浮かぶだろう。ミケランジェロは基本的に”裸族の王”と呼びたくなるほど男の全裸像にこだわりがあり、なかでもダビデ像は多くの人が知る存在だ。
身長17フィート、約1.5mのダビデ像は、まさに男性の美しさの象徴といえる。バランスのとれた頭身、熱い胸板に完璧に刻まれた腹筋とくびれ、全体的に無駄肉のない引き締まった体、そして腰布で覆うことのない男性シンボル。
今にも動き出しそうなリアルなイメージがあるこの傑作を制作するにあたり、ミケランジェロは古代ギリシャ・ローマ時代の男性の美の理想像、すなわち力強さと男らしさを強調するものにインスピレーションを得たという。
ミケランジェロは”パパの王”でもあった
”裸族の王”であるミケランジェロは、また”パパの王”でもあった。
システィーナ礼拝堂の天井にあるフレスコ画『アダムの創造』でミケランジェロが描いた見事な神の姿は、他の多くのヌード作品よりも上品とはいえ、それでも彼は神を男性の完璧さの象徴として描くことを止めはしなかった。
服の上からでもくっきりとわかるほどに神様の胸板は厚く、鍛え上げた腕と脚はフィットネスの頂点に達しているといっても過言ではない。まるで雲でできているようにも見える髭が、男性的なパパ像を強調している。
システィーナ礼拝堂の天井は、多くの意味で、男性の完璧な姿への賛歌となっている。
神は尊敬の念から衣服を身に纏っているが、神を取り巻く男たちは誰も同じ基準では扱われていない。アダムは筋肉を見せつけるように全裸であり、他の多くの男たちも同様に全裸で逞しい肉体を晒している。
システィーナ礼拝堂の天井から壁面は、文字通り、裸の男たちで覆われているのだ。もしかしたら天国はホットなジムの会員ばかりなのでは、と思ってしまうほどだ。
逞しい男の裸を描いた芸術作品をエッチな目で見てしまい、そこに罪悪感を覚えてしまった人もいるだろうが、「芸術は高尚なものである」という固定観念を取り払って自由に楽しむと、今まで知らなかった発見があるかもしれない。
※参考記事:QUEERTY
(冨田格)
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