昭和〜平成、日本のゲイの出会い方はどう変わってきたのか?【前編】

学校や職場、街中でのナンパ、合コン、街コン、男女が出会う機会は生活する上でいたるところにあるが、ゲイ同士はそうはいかない。少しはオープンな空気感がうまれている令和になっても、好意を持った男性に街中や会社で気軽に声をかけられる、という勇気があるゲイ猛者は決して多くない。

しかしゲイ同士が出会う方法はいつの時代にも確実に存在してきた。昭和の時代から平成にかけて、ゲイならではの出会い方で恋人や友人という繋がりを広げてきた。

日本のゲイの出会い方が、時代によってどのように変わっていったのか、その変遷を振り返ってみよう。

昭和〜平成、日本のゲイの出会い方はどう変わってきたのか?

昭和から平成、ゲイの出会い方の変遷

「昭和から平成、日本のゲイの出会い方の変遷」は下記の4部構成で振り返っていく。

◾︎昭和時代
ゲイ雑誌の文通欄や、直接の出会いが主流

◾︎平成元年(1989年)~平成10年(1998年)
手紙(文通)から声の出会いへ

◾︎平成11年(1999年)~平成20年(2008年)
インターネット、携帯、写メール、SNS…ゲイの出会いの技術革命

◾︎平成21年(2009年)~平成31年(2019年)
スマホ、Facebook、GPSアプリ、SNS…国境を超えた出会いへ

前編は、「昭和時代」と「平成元年(1989年)~平成10年(1998年)」を振り返る。

昭和時代
ゲイ雑誌の文通欄や、直接の出会いが主流

昭和から平成、ゲイの出会い方の変遷
※昭和最後の1980年代、月刊ゲイ雑誌は薔薇族・さぶ・アドン・サムソン・The Gayの5誌体制。

昭和の頃、ゲイが出会うための方法はとても限定的だった。中でも主流だったのは下記の5つ。

1)ゲイバー
2)友人の紹介
3)ゲイ雑誌の文通欄
4)有料ハッテン場
5)口コミで広がる公園・映画館・トイレなど

当時のゲイバーは、表ではノンケの仮面をかぶって生活しているゲイが、その仮面を外して本当の自分になり、男と出会う場としての機能が大きかった。それゆえ、今と違って女性・ノンケは入れないゲイだけの空間という店がほとんど。

またこの時代に、大きな存在だったのがゲイ雑誌だ。日本のゲイ雑誌は、ポルノグラフィーであり、ゲイライフ情報誌であり、出会いの要素も含んでいた。

雑誌における出会いの要素とは「文通欄」だ。「文通」とは、交際相手募集のためのプロフィールや相手への希望を100文字強のコメントにして載せるスペースがあり、それを見た人が手紙を書いて編集部に送ると回送してくれる、というシステムのこと。

昭和から平成、ゲイの出会い方の変遷

当時の月刊ゲイ雑誌5誌(薔薇族・さぶ・アドン・サムソン・The Gay)それぞれ取り上げる男のタイプが異なっていて、自分の好きなタイプと合致する雑誌の文通欄を使って出会いを求めていた。

文通での出会いは、ある程度の時間を必要としていた。

例えば、自分のプロフィールを投稿したとして、雑誌に掲載されるのは早くても翌月発売の号。それから文通希望の回送が届き始めるのは雑誌発売してから1週間後くらいから。その手紙に返事を書くなり、電話番号が書いてあれば電話するなりするわけで、最速で会うとしても1ヶ月半~2ヶ月くらいは必要だった。文通を重ねてから出会う場合は、1年以上かかることも珍しくはない。

出会いの手段が限られていたとはいえ、昭和時代は出会うまでにはずいぶん気長でいることが求められていた。ところが平成になると、出会いまでの時間がどんどん短くなっていく。

平成元年(1989年)~平成10年(1998年)手紙(文通)から声の出会いへ

昭和から平成、ゲイの出会い方の変遷
※平成最初の10年間は、日本のゲイ雑誌がもっとも隆盛だった時代。最盛期は薔薇族・さぶ・アドン(96年休刊)・サムソン・The Gay(休刊年不明)・バディ(93年創刊)・G-men(95年創刊)の7誌体制だった。

平成が始まった頃に、ゲイの出会いに大きな変化が現れた。それは「電話」の活用だ。

「伝言ダイヤル」

1986年にNTTが開始した「伝言ダイヤル」というサービスがあった。

これは、【6〜10桁のボックス番号+4桁の暗証番号】を設定して30秒のボイスメッセージを10件吹き込める『伝言ボックス』を作ることができるシステム(吹き込んだメッセージは8時間経つと順に消えていく)。

ボックス番号と暗証番号の組み合わせを特定の語呂合わせにして口コミで広めることで、男女の手軽な出会いツールとして使われ始めたが、出会いを求めるゲイがそれを黙って見ているはずがない。

ゲイならではの語呂合わせボックスが次々と作られ、口コミで広まっていった。ゲイならでは語呂合わせの一例として

01050105# 0105#(男トリプル)
02130213# 0213#(お兄さん)
02130213# 4404#(お兄さんしようよ)
32863286# 3286#(さぶ野郎)
01030103# 4404#(お父さんしようよ)
29862986# 2986#(肉野郎)
21010213# 4404#(太いお兄さんしようよ)

などが使われていた。

サービス開始当初は、使用できるエリアの制限などがあったが、平成元年(1989年)にシステムが変更され、都道府県別のセンター全てに県番号が割り振られ、全国で使えるようになった。

それに合わせて、吹き込めるメッセージの長さは60秒を20件まで、メッセージ保存時間は24時間に変わり、利便性がよくなったことでゲイの利用者が激増した。特に東京エリアは新たな語呂合わせが増殖していき、年齢や体型、プレイの好みに応じて細分化されていった。

「ダイヤルQ2」

平成元年(1989年)にNTTが始めた、電話による有料情報サービス。情報料金を電話料金と共にNTTが回収するシステムで、当初はニュースやエンターテインメントなどの情報提供を想定していたようだ。

しかし、これに目をつけたのが成人向け情報提供業者で、情報料金の上限(300円/3分)設定でツーショットチャットダイヤルを男女向けに始めたら大ヒット。当然のようにゲイ対象のツーショットダイヤルも激増した。

利用金額が高いので、高額請求が社会問題化し1992年にはツーショットダイヤル事業者は事実上消滅したことで出会い機能としては使えなくなったが、ダイヤルQ2システムを利用した会話サービス(いわゆるテレフォンセックス)は21世紀になっても細々と続けられていた。

昭和から平成、ゲイの出会い方の変遷

手紙(文通)から声の出会いへ

昭和時代から大きく変わったのは、文字ではなく声でコミュニケーションをとることができるようになったということ。

ワープロも一般的ではなかった昭和時代は手紙も手書き。文字の巧さや文章力など、手紙の文面から人柄は伺える上に、写真を同封する人も多かった。何より住所も教えあうので、お互いに個人情報を差し出しあっていた。

電話を使った出会いの場合は、写真も住所も教えあうことなく、声や話し方、その内容で相手を推測することになる。

システムを介して話すダイヤルQ2なら個人情報はほぼ差し出すことなく出会いにつなげることができる。しかし、伝言ダイヤルの場合は、携帯電話が普及するまではメッセージを吹き込む際に直接家の電話番号(略称:家電)を公開する必要があった。

1990年代にポケベルがブームになると、メッセージに吹き込むのはポケベルの番号が増え、家電を公開する人の割合は減って行った。

電話の場合、本当にお互いが会いたいと考えていて、かつ割に近くにいてタイミングが合えばすぐにでも会えるという利点があった。しかし、テレフォンセックス(略称:テレセ)を求めている人も少なくなかったので、実際に会うのか、それともテレセがしたいのかというお互いの希望が合致しないパターンも少なくなかった。

20世紀のゲイの出会いは牧歌的

平成最初の10年間の特徴は、出会いの方法が格段に増えたということ。電話を使った出会いだけになったのではなく、ゲイ雑誌が隆盛期を迎えたことで雑誌文通欄を利用する人も増えていった。

もっとも部数が多かったバディ誌では、最盛期は文通欄に毎月1500件を超えるメッセージが掲載されていたほど。また、テニスやバレーボールなどスポーツや、コーラスや吹奏楽など音楽のゲイサークルが全国的に増えていったので、同じ趣味を通じて出会うという人も少なくなかった。

昭和の文通から平成になっての電話活用と、出会いの方法が増え速度があがった面があったとはいえ、20世紀はまだまだアナログが主流の牧歌的な時代だったと言えるだろう。

さて、前編はここまで。後編は、平成11年(1999年)以降の21世紀に入り、インターネットを使ったゲイの出会いは、速度に加えて距離・範囲をも地球規模で拡大していった流れを振り返る。

昭和〜平成、日本のゲイの出会い方はどう変わってきたのか?【後編】

文責:冨田格
編集者・ライター。元ゲイ雑誌編集長(月刊G-men)。

Wikipedia「伝言ダイヤル」:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E8%A8%80%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%AB

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