”ピープルズ・プリンセス”故ダイアナ妃とゲイたちの強い絆を振り返る

英国王室のお騒がせ次男ハリー王子の回顧録『Spare』が米国で発売。回顧録の中でハリー王子はダイアナ妃の執事だったゲイのポール・バレルに対して、「ダイアナ妃の死を搾取した」と非難している。実はダイアナ妃とゲイの関わりはポール・バレルだけではなかった。

”ピープルズ・プリンセス”ダイアナ妃が、ゲイ・ピープルにとっても大切なプリンセスであった過去を振り返る。

世界が注目した歴史に残る結婚式

ダイアナ妃
画像引用元:Instagram

1981年7月29日、ロンドンのセント・ポール大聖堂でチャールズ王太子と盛大な結婚式を挙げたダイアナ妃。この挙式の模様は世界70ヶ国で放送、日本ではNHKが放送した。この結婚により、ダイアナ妃は世界中からの注目を集めるようになった。

ウイリアム王太子とハリー王子という2人の息子を授かったが、チャールズ3世とダイアナ妃の関係は決して良好ではなく、1996年に離婚。

離婚後のダイアナ妃は、パキスタン人の医師ハスナット・カーン、そしてエジプトの大富豪の息子ドディ・アルファイドを浮名を流し、1997年8月、パリでドディと共に乗った車が事故を起こし死亡した。

(右)ハリー王子

ハリー王子の回顧録のタイトルは、自分がウィリアム王太子の『スペア(Spare)』であるとチャールズ3世に言われたことからつけられたという。

ダイアナ妃の執事は隠れゲイ

ダイアナ妃
ポール・バレル

数年間執事だったポール・バレルのことをダイアナ妃は「ロック」と呼んでいた。バレルには妻がおり、2人の息子の父親でもあるが、32年間の結婚生活の後2016年に妻と別れ、翌2017年にはパートナーの男性と同性婚した。

バレルはダイアナ妃には自分のセクシュアリティを打ち明けていたという。親しい友人がザ・サン紙に「当時はダイアナだけが、バレルにとってカミングアウトできると思える存在でした」と語っている。

既婚隠れゲイだったバレルがダイアナ妃にだけは正直になれたのは、彼女にはゲイに対する偏見も差別意識もないと思えたからだろう。バレルは、ダイアナ妃のゲイ・セレブたちとの交流や、当時は死に至る深刻な病であったHIV/AIDSに対する取り組みを側で見ていたからこそ、その確信をもてたはずだ。

ダイアナ妃のHIV/AIDSへの貢献

ダイアナ妃
画像引用元:Instagram

1980年代、HIV/AIDSがゲイの男性を中心に感染が広まり始めたころ、当時は謎の病気であり効果的な治療法もなく、エイズを発症した多くのゲイ男性はゆっくりと衰弱していき死を避けることができる人はとても少なかった。

当初は「ゲイの病気」とみなされ、エイズを発症した人は友人や家族から排斥され、孤独な状態で死を待つしかなかった。

そんな中、ダイアナ妃がエイズ・ホスピスを訪問し、患者と握手する姿を写真に収めたことは、とても画期的な出来事だった。

ダイアナ妃
『ダイアナ』アンドリュー・モートン

作家のアンドリュー・モートンは、1992年の著書『ダイアナ』の中で、HIV感染者の手を握る写真を撮った王女は、「致命的なエイズ・ウイルスを取り巻く偏見を取り除くために、生きている誰よりも多くのことをした。ダイアナは退屈で義務的な従来の王室の関わりを超えた、自分にとっての人道的ビジョンがあった」と記している。

ダイアナ妃は1987年、ロンドンのミドルセックス病院に英国初のHIV/AIDS診療部門を正式に開設した。1996年の離婚後は、さらにエイズ啓発活動に注力するようになった。

エイズ患者に寄り添う姿勢

ダイアナ妃は、西ロンドンにあるホスピス「ロンドン・ライトハウス」を何度も訪れ、公的にも私的にも支援した。当時、受付で仕事をしていたデイヴィッド・ホッジは最近の回顧録『The Boy Who Sat By The Window』でダイアナ妃がプライベートな訪問をしたときのことを記している。

ダイアナ妃
The Boy Who Sat By The Window

「彼女は、ウイルスの感染に関する神話を打ち破り、この恐ろしい危機を救うためにできることは何でもする、という目標を掲げていた。その助けはありがたく受け取った。彼女はしばしばお忍びでやって来ては、エイズを発症した重病人や死を目前にした人たちとお茶を飲みながら、おしゃべりをした。彼女はまた、肉体的にも精神的にも多くの困難に直面しているスタッフを支え、励ましてくれた」

1991年4月、彼女は「子供とエイズ会議」で有名なスピーチをした。

「HIVは人を危険にさらすものではないので、握手やハグをしてあげてください」と彼女は言った「彼らはそれを必要としているのですから」。

ダイアナ妃とフレディ・マーキュリー

ダイアナ妃
フレディ・マーキュリー Photo: Simon Fowler © Mercury Songs Ltd

ダイアナ妃とクイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーには伝説的な話がある。女優でラジオDJのケニー・エヴェレットの親友クレオ・ロッコスの2013年の回顧録にそのエピソードが記されている。

1980年代のある日の午後、ロッコスとエヴェレット、マーキュリー、ダイアナの4人はシャンパンを飲みながら、テレビを見て過ごしていたが夕方になり、いたずら心からロンドンの象徴的なゲイバー”ロイヤル・ヴォクスホール・タバーン”に行こうということになった。

地球上で最も有名な女性の一人であるダイアナ妃がゲイバーに行けば大スキャンダルになることは確実。そこで彼らはダイアナに女装メイクを施し”ちょっと風変わりな格好をしたゲイの男性モデル “に変装させた。

野球帽、サングラス、ボンバージャケットを身につけたダイアナは、ロッコスによると「美しい青年に見えた」そうだ。実際、店に入ってもダイアナだとは誰にも気が付かれず、一杯ずつ頼んだドリンクを飲み干して、入店から20分で作戦の成功を祝ってその場を立ち去ったという。

周囲の人が自分をダイアナ妃だと気がつかず、まるで空気のような存在でいることをダイアナ自身はとても楽しんでいたそうだ。1991年にマーキュリーが、そして1995年にエヴェレットがエイズで死亡した。

ダイアナ妃とエルトン・ジョン

ダイアナ妃
エルトン・ジョン

ダイアナ妃はエルトン・ジョンとも友人だった。エルトンと出会ったのは1981年のこと。エルトンは回顧録『ME』で、ダイアナに関してこう記している。

「私が彼女と知り合ってから数年間、彼女は素晴らしい仲間であり、最高のディナーパーティのゲストであり、信じられないほど軽率で、本当のゴシップ好きだった」

ダイアナ妃
『ME』エルトン・ジョン

しかし1997年初頭、ダイアナとエルトンは仲違いをしてしまう。その理由は、売り上げをエルトン・ジョン・エイズ財団のために使うことになっているジャンニ・ヴェルサーチの写真集の前書きを書く約束を、ダイアナがキャンセルしたためだという。

写真集はかなり際どい内容で、王室に関わる人物がその写真集に自分の名前を貸すことを思いとどまらせたとエルトンは考えている。しかし、同年ヴェルサーチが殺害されたとき、ダイアナとエルトンは彼の葬儀で並んで写真に収まっている。ダイアナは、傷つき泣きじゃくるエルトンを慰めていた。

その数週間後、ダイアナもこの世を去った。エルトンと作曲パートナーのバーニー・トーピンは、彼女の葬儀のために楽曲「Candle In The Wind」を書き直したことは有名である。またダイアナの葬儀には、彼女と親交があったジョージ・マイケルもエルトンと共に参列していた。

ダイアナ妃の経歴を振り返ると、彼女とゲイの間に深い絆があったことを改めて確認できるだろう。現在Netflixで配信中の「ザ・クラウン」シーズン5では、チャールズ3世との結婚から不慮の死までダイアナの人生が描かれている。

Netflix「ザ・クラウン」シーズン5

※参考記事:QUEERTY/QUEERTY

(冨田格)

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